柳宗理 やなぎむねみち やなぎそうり Sori Yanagi
白樺派の父・柳宗悦、当時の日本を代表するアルト歌手、母・兼子の三人兄弟の長男として生まれました。園芸研究家・柳宗民、美術史家・柳宗玄は実弟です。
幼少期は千葉県我孫子の手賀沼で育ちます。すぐそばには同じ白樺派の志賀直哉や武者小路実篤が住み、イギリス人の陶芸家バーナード・リーチの窯がありました。その頃の柳家は、白樺派が集めたロダンの彫刻やセザンヌの絵が置かれ、様々な文人、芸術家が出入りし、日本のどこよりも早く西洋美術や日本の文学に触れることのできる場所でした。
その後、大正2年の関東大震災などを経て、一家は京都に移り住みます。中学卒業の頃、一家は再び活動を東京に移し小石川、そして目黒区の駒場へ(現在・日本民藝館西館)移ります。
1934年、東京美術学校(現・東京芸術大学)油絵科に入学、現代デザイン思想発祥の地であるバウハウス帰りの水谷武彦の講義に大きなショックを受け、フランス人建築家、ル・コルビュジエの「現代の装飾芸術」に感激します。装飾のないところに真の装飾があることを述べた、機械時代の到来を告げた本であり、その中に、宗理は自分の進んでいく道を見つけ始めます。
大学を卒業後、幸運にも、商工省の招きで来日した、ル・コルビュジエの協力者「シャルロット・ペリアン」女史のアシスタントとなり、全国を歩きます。その機械時代の最先端にいるはずのペリアンが選ぶものは、宗理が反発したはずの「民藝」でした。ペリアンを通じ、「伝統と創造」というのは同じところにあると気が付きます。
1942年、坂倉準三建築事務所の一員となりますが、1943年、戦争により陸軍報道部の一員としてフィリピンへ赴きます。コルビュジエの「輝ける都市」を肌身離さずもっていたといいます。
終戦そして帰国後の昭和22年から工業デザインに着手し、陶器のデザインをしますが、終戦直後の物資不足の中、焼成の燃料持参でなければ窯業所は生産を行わないため、海中に沈没した軍の徴用船から石炭を運びだし焼成にこぎつけます。
1952年、毎日新聞社主催の第一回工業デザインコンクールで第一席及び二席に併せて入選を果たし、これを期に、財団法人柳デザイン研究会を設立します。
1957年、第11回ミラノ・トリエンナーレに招待出品し、「バタフライ・スツール」が金賞受賞。その後はデザイナーとして国際的に活動、1977年、日本民芸協会会長、翌年には日本民芸館館長に就任します。1980年にはイタリア在住のデザイナーでさえも推挙がなければ困難とされる「ミラノ市近代美術館」でデザイナー初の個展を開きます。1981年紫綬褒章、2002年文化功労者を受賞。
日本の生活に合わせたという椅子「バタフライ・スツール」や、照明、オート三輪、陸橋、オリンビックの聖火台まで幅の広い仕事を見せ、ニューヨーク近代美術館やルーブル美術館、ポンピドーセンター、ヴィトラミュージアムなどには作品が永久保存されています。
四谷にある柳デザイン研究会には、たくさんの模型や轆轤台、石膏型などが並んでいます。図面をひくだけでなく、かならず模型を作って構造を確かめていく、それが柳式デザインなのです。
売る側の論理ばかりが優先される消費社会を批判し、自分の眼力を信じて行動してきた柳宗理は、モダン・デザインブームが再び来ようとも、常に変わらずにデザインを愛し、現在も現役で「創造」を続ける毎日なのです。
柳宗理公式サイト
柳宗理/1954年/バタフライスツール
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